デモソフィア

19 February 2022

デモソフィア

The Tennis Court Oath by Auguste Couder, 1848, Photo credit: Wikimedia Commons

デモクラシーと哲学(フィロソフィー)は同じ一つの困惑への応答が示す2つの面に他ならない。すなわち結集する人間たちが、一堂に会するために聖なる絆を(あるいは、実際には両者は混同されているが、自然の絆を)もはや持っていないという当惑への応答だ。ここでデモクラシーとフィロソフィーをカップリングして「デモソフィア(民衆知)」という語を作っても言い過ぎにはなるまい。民衆を見定め、その本性と幸福を見極める技芸と学知がその謂である。

デモクラシーと哲学は、両者がなによりも根拠の不在に関連するかぎり同じものである。デモクラシーとは指導者と法を欠いた集団が置かれている状態・政体であり、哲学は原理と規則を欠いた思考の状態である。


いずれの場合にも重要なのは何かを発明することであって、最終的な結果に至ることが問題なのではない(だとすると審議を経て様々な決定を下したり、意味を入念に確定したりすることは除外されるだろう)。そのようなわけでデモクラシーと哲学はともに、西洋の歴史が大転換によって揺さぶられる社会的・象徴的形態から身を引き離したまさにその時、この歴史の内に姿を現す。それは喪失の時代、発明の必要の時代だ。ギリシア、ユダヤ、ローマの時代であり、すぐさまイスラームの時代でもある。 この歴史の外に出ると別のことが問題となる。各種の統治形態と思考形式が自らのリソースを汲み出してくるのは、太古からの源泉と常に結びついている特筆すべき発明の数々(神話、叡智、象徴的体制)によって実を結んだ様々な形態と力の鉱脈からだ、という点である。これは統治の技芸・思考の技芸であって、今すぐ不安定さと迷走状態に対応しなければならないということではない。王、司祭、シャーマンといった人々がいるのと同じく、伝統的な祭儀、あるいは瞑想と祈りの朗唱が行われる。保障されるのは社会秩序、そして規則性、リズムが生じる——有無を言わさぬイエラルシーという条件の下で。


デモクラシーと哲学の内にみられるのはまったく反対に、極貧の者たちの焦り、騒擾、貪欲であり、このことは、帝国や部族内にそれらを保障するものや威厳があり、貧困と圧政をも貫いている——と言って戦争や征服が妨げられることはない——のと対照をなしている。同様に、西洋では再生産と保存の知恵よりも、生産と進歩の論理が頭をもたげている。西洋は(有機的・革新的モデルに基づく)成長へと駆り立てられてきたのに対し、別の場所では(累積・伝達モデルに基づく)増大で事足れりとされていた、と言っても良いだろう。


だが騒擾は、与えられた環境の利用を超え、自然の力を無理強いして使うという意味でテクノロジー的なものになったとき、世界を征服した。

だが先の騒擾は、与えられた環境の利用を超え、自然の力を無理強いして使うという意味でテクノロジー的なものになったとき、世界を征服した。その典型例にして象徴的なものが航海術にある。古代中国では知られながらもほとんど用いられなかったのに対し、13・14世紀のヨーロッパで発展し完成された独自の舵〔gouvernail:船尾に搭載されたラダー〕をもって、船舶は大海に乗り出し、より速く上首尾に航行できるようになる。火器における火薬の使用でも同様の歴史がみられる。工業・経営・企業の領域に広がったテクノロジー複合体はそのネットワークを数世紀かけて地球全体に広げた。デモクラシーと哲学は密接に結びつきながら、その拡張の一端をなしてきたのだ。


デモクラシーと哲学は象徴的な力を無理強いして使うためのテクノロジーを二重に形作っている、と言うこともできるだろう。原理も象徴的・自然的な秩序もないところでは法それ自体を発明する必要がある、言い換えれば、社会的集合体の働き方と、この働きの根拠および/あるいは合目的性のいずれをも発明しなければならない。法の可能性そのものを問いただすことなくしてデモクラシーはなく、原理と目的をめぐって実際に議論を戦わせずして哲学はない。

 プラトンならこうした主張に反論すると思われるかもしれない。彼はデモクラシーに反対なのだから。だがプラトンはただ、都市国家に集合した民衆の真理だと自らが考えるものの名においてのみ反対している。さらに、プラトンはデモクラシーと哲学の共生をあるプロセスの現実として認めている、と言うことさえできる。すなわち意味と強さを奪われた生存(実存)にこれらを与えるという、ただ一つのプロセスのことだ。ところで生存というのは共同のものである——まさにそれゆえにこそ、あらゆる文化は共同体の維持と繁栄のために様々な措置を講じている。


ところでデモソフィアは進歩とそれによる統治の真の約束のことであった。すなわち新しくなり完成された人類、正義と平和を守り、受け身で苦しんでいるだけではない能力をもった人類に到達するはずだったのだ。

デモクラシーと哲学(フィロソフィー)は同じ一つの困惑への応答が示す2つの面に他ならない。すなわち結集する人間たちが、一堂に会するために聖なる絆を(あるいは、実際には両者は混同されているが、自然の絆を)もはや持っていないという当惑への応答だ。ここでデモクラシーとフィロソフィーをカップリングして「デモソフィア(民衆知)」という語を作っても言い過ぎにはなるまい。民衆を見定め、その本性と幸福を見極める技芸と学知がその謂である。



The Concourse of the Birds, folio 11r of a Mantiq al-tair (Language of the Birds) of Farīd ud-Dīn painted by Habiballah of Sav ca 1600, Photo credit: Metmuseum.org

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デモソフィアは、ヨーロッパ文明以前の地中海で始まったテクノロジー的な大計画の政治的・法的・思弁的な側面を形づくったということになるのだろう。おそらくはローマ世界がその最初の産物であり、ヨーロッパがこれに続いたというわけだ。


テクノロジーの拡張がまた支配の計画でもあったことは間違いない。今日、問題なのはもはや支配を暴露することではなく、むしろ支配力がかつて帯びていて、ある程度までは万人に認められていた信用を失った点を確認しておくことである。技術の秘めたる力は生存の意味を生み出す能力とは一切関係がない。ゆえに今日、デモクラシーと哲学は、共同の生をめぐるテクノロジーと考えられ、見劣りしてしまうのである。


 しかしながらこのような驚くべき脆弱さが目を引くのは、いわゆる先進国の内側においてでしかない。他の国々にとって、西洋風の相対的な幸福の総量(食料、健康、余暇、快適な自宅、移動、等々)はモデルとなって欲望を掻き立てる。だがまさしくその欲望が先進国の人々を見捨てつつある。彼らは技術経済の巨大機械に服従した生活の虚栄と空虚を意識するようになってきている。この巨大機械は、そこから指数関数的に富を得る者たちのためにのみ動いているのであって、他の者たちはこの機械によってどこに連れていかれるのか次第に把握できなくなっている。覇を唱えているのはもはやイエラルシーではなく、力の特権である。


ところでデモソフィアは進歩とそれによる統治の真の約束のことであった。すなわち新しくなり完成された人類、正義と平和を守り、受け身で苦しんでいるだけではない能力をもった人類に到達するはずだったのだ。ところが今日の人類は、その膨大な数のほとんどが受け身で苦しむばかりだ。ある人々は他人のような安楽な暮らしを露骨かつ残酷に奪われているからであり、また別の人々は自分たちの生存を解放すると称しながらじつは蝕んでいる、理解不能で途方もない機械仕掛けに取り込まれて、どんな力も、どんな生命の息吹も見出すことができないからである。


それゆえ私たちは「デモソフィア」という語を保持しはしない。この語は、顧みられることのなくなった約束を指し示す程度にしか役に立たないからだ

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約束は間違っていたのだ——私たち、他ならぬ老いたデモソファー/デモソフィストたる私たちが何も分かっていなかったのでないとすれば、そして、まったく別の人類、大機械仕掛けの部品となる人類が誕生しているというのでないとすれば。そのようなことを私たちは思い描くことができない。


たしかに地上には膨大な数の人間が存在し、多種多様な宗教、信仰、戒律遵守を通じて日々の生活に必要不可欠な指針、生存に欠かせない活力と息吹を得ている。どの共同体にも、それぞれの神々と精霊による差配のあらんことを。しかしながら、これほど相違し、矛盾しもする形をとった生存環境の共存と相互干渉を理解しよう、さらには制御しようなどというのは簡単なことではない。


実際には、一方でデモスはおのれに形式と内実を与えてくれていたものすべてを失ってしまったようにみえる。他方、ソフィアはアルゴリズム群からなる全般的コンピューター体制へ転送されているように思わる。どちらの面でも欲望の激しさは——それはつねに計算不可能なものへと向かうものだが——計算の精度に譲歩している。とはいえ計算能力それ自体を別にすれば、計算するというのがどういうことなのか誰も分かってはいない。


それゆえ私たちは「デモソフィア」という語を保持しはしない。この語は、顧みられることのなくなった約束を指し示す程度にしか役に立たないからだ。人類の近代史は、内部でネットワーク接続されると同時におのれ自身の表象を失った世界の歴史となって完結するときに、「民衆」と「思考」という2つの空虚な形式を私たちに呈示する。言い換えれば、生存と意味である。私たちにはただ一つのことが分かっている。すなわち、この両者は何か別の現実——人口数と計算からなる現実——の内に消え去ろうとしているか、あるいは私たちがいまなお予想だにせぬまったく新たな光の下に現れようとしているか、いずれかだということである。それゆえに「デモクラシー」と「フィロソフィー」は新たに二重の名となる。おそらくは時代錯誤的な名、もはや約束ではありえず喫緊のものとなった事態を指す名だ。



追記


「デモソフィア」という表現が保持しがたいのは、言葉にこうした外科手術を施した後に何が残っているかを考えることが不可欠であるだけに、よりいっそうのことである。残っているのは「フィロクラシー」というもう一つの組み合わせ、すなわち権力への愛である。


ところで、民衆の、民衆による、民衆のための真の思考であるはずのデモソフィアは、何よりも、人を行動へ掻き立てる原動力の最たるものであるこのフィロクラシーを制止しなければなるまい。だからといって一切の権力を持ってはならないというわけではなく、権力愛はもう一つ別の愛によって、つまり生と言葉への愛によって統御され、導かれ、教化される必要がある。デモクラシーと哲学がともに考えなければならないのはこのことなのだ。


Translated by 訳:柿並良佑(RYOSUKE KAKINAMI)

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