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臨床の終焉
25 August 2022

MONUMENT OF RECOVERY “The Door”, Atsushi Watanabe; Crédit d’image : Keisuke Inoue, ©️Atsushi Watanabe 2020
精神障害の終焉 – 精神医学の権力から当事者の生権力へ – 患者はもはや当事者の影でしかない – 「臨床を防衛せねばならない。」
精神障害の終焉
我々は「精神医学」および「精神障害」という用語を、これまでつねに存在してきたものであるかのように用いている。しかし、これらの用語はきわめて最近のものであり、用語が表す意味は時を経るにつれて空疎なものとなってきた。21世紀の終わりには、これらの用語が廃れてしまっていることは、容易に想像しうるほどである。
あらゆる時代を通じて確実に存在してきたもの、それは医学である。19世紀後半の間に、医学は精神医学と神経学に分けられた (1)。精神医学はフィリップ・ピネル(1745-1826)の発明でもなければ、ウィリアム・テューク(1732-1822)、あるいはフランシス・ウィリス(1718-1807)の発明でもない。また精神医学は、19世紀フランスのアリエニストたちとともに発展したのでもない。ジャン=マルタン・シャルコーやジグムント・フロイトについても同様である。彼らの職業は、言うまでもなく、神経科医であった。18世紀の医者たちや、19世紀のアリエニストたちが、精神医学の用語に基づいて彼らの学問領域について記述することは決してなかったということ、そして自身についても精神科医という用語で呼称することはなかったということは、文字通りに受け取る必要がある。確かに、我々は精神医学の歴史について、厳密にというよりはむしろ安易に語ってしまう。しかし、クレペリン以前の時代というのは、フーコーの言葉を引用するならば、「前-精神医学」なのである。精神医学の誕生は、クレペリンの周辺に位置づけられる。そしてクレペリンに先立つ医者たちが、精神医学の用語を用いることも、自らを精神科医として呼称することもなかったにもかかわらず、彼らが精神医学を実践していたの だと考えることは、目的論的アプローチの本質的特徴である。つまり、このアプローチは、ギリシャ語のテロスにあたる目的因なるものを介在させることによって、諸現象を説明してしまうのである。
精神医学や精神科医たち、さらにはそうした人々がでっちあげる障害は、最近のものである。繰り返すが、それらが21世紀を生き延びるということを証明してくれるものは何もない。実際のところ、近代以降、医学の対象は以下のようなものが次々と現れた。非理性、狂気、心神狂、神経の病、精神の病、精神障害などである。現代のメンタルヘルスにおいて問題となっているものについて考察するうえで、フーコーのアプローチがいかに的確であるか示してみたい。そうするためには、「精神医学の権力」についての講義にとどまっていることはできない (2)。なぜなら、生権力という考えに訴えることが必要だからである。狂気と非理性についての研究において、フーコーは19世紀末で歩みを止めた。ところが、生権力の到来をしるしづけるのは、まさに20世紀末および21世紀初頭なのである。19世紀において、規律権力はアリエニズムと心神狂を必要とした。対して20世紀においては、精神医学と精神 障害を必要とした。21世紀はといえば、生権力はメンタルヘルスや「クラスター」、バイオタイプを必要としている。
本論の目的のひとつは、現在起きているメンタルヘルスの変容を、フーコーのアプローチを継続しながら、生権力という考えによって照らし出しつつ読み解くことである。ここでは、アメリカの国立精神保健機関および(2009年に開始された)RDoCプロジェクトを例として取り上げる。後者は、新たな疾病分類学を産み出すという野心をもっている (3)。こうしたアプローチにおいては、精神障害は脳の障害へと還元されるだけではない。精神障害は生物学的障害へと還元されてしまうのである。我々は重大な変容に居合わせている。その変容のなかで、(精神医学的)規律権力は、(メンタルヘルス的)生権力に従属するのである。
精神医学の権力から当事者の生権力へ
メンタルヘルスの領域に従事する者の使命はユーザーの自律性を実現することであると我々は知っている。実際、WHOによれば、「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱 の存在しないことではない」。ロラン・ゴリやマリー=ジョゼ・デル・ヴォルグロは、こうした状態を「全体主義的健康」と呼んでいる (4)。ひとつの健康、全体/包括的なよい状態、完全な自律の実現への意志は、精神医学の破壊を含意している。
DSMは「ひとつの辞書」にすぎない、「患者はよりよい状態になる権利を有している」、「研究はDSMのカテゴリーを用いない方向に再出発している」(5)。こうした主張は、ロナルド・レインやデヴィッド・クーパー、フランコ・バザーリアといった反精神医学論者に由来するものではない。それは、2013年にアメリカ国立精神衛生研究所の所長であったRDoC計画によって有名になった科学者、トマス・インセルの主張である。実際のところ、このRDoC計画は精神医学のカテゴリーを消滅させようという試みを証言しているが、それは単純な理由、すなわち、精神医学は精神障害を治療することはできないという理由に基づいている。実際、精神障害は少しずつ不明瞭になっている(例えば、自閉症スペクトラムという考えが挙げられる)。そして、その定義は時として批判を浴びている(例えば、抑うつ症にかんして)。また、併存症の存在が問題としてある。つまり、同一の人物に対して、いくつかの精神障害が診断されたとき (6)、こうしたカテゴリーは曖昧であり、明確な臨床単位をとらえ損なっているいると正当にも考えることができる。もっとも、そのようなものに関する知識を我々は未だ持ってはいないのだが。
精神医学の発展は医学のほかの領域における発展に比べてずっと劣っているとしながら、メンタルヘルスの研究者の一部は、バイオ医学とビッグデータは精神医学が失敗したところで成功を収めるだろうと考えている。精神医学の失敗の原因は、次のように考えられている。すなわち、バイオ医学とビッグデータがデータに基づいているのに対して、精神医学のカテゴリーは諸症状に基づいているからだ、と。

そうしたデータは、計算論的な疾病分類学や精密精神医学、その他のバイオ医学の諸領域によって提供されている。それらのデータは分析単位(遺伝子、分子、細胞、回路、生理学、行動、セルフレポート、パラダイム)によって構成されたマトリックスと、23の構成要素に分割された諸領域(ネガティヴ系、ポジティブ系、認知系、社会系、覚醒/制御系)へと分類される。また、バイオタイプ(バイオマーカー基づくカテゴリー)は伝統的な診断よりも正確であることが知られている (7)。抑うつ症は四つのバイオタイプに分割することもできる (8)。そして、それぞれのバイオタイプに応じた治療(投薬、セラピーなど)が提案され始めている (9)。異質な症状の群(症候群)として考えられてきた精神障害は、同質的なクラスターによって置き換えられようとしている (10)。たとえば、私たちが統合失調症や抑うつ症、双極性障害として知っているものは、クラスター1、2、3となる。
トマス·インセルの指揮のもとで進められているRDoC計画は、精神医学なしのメンタルヘルスのひとつの地平を指し示しているようである。「精神障害は生物学的障害である」と彼は書いている。ジョシュア·ゴードンが2016年にアメリカ国立精神衛生研究所の新たな所長に就任したことによって、精神医学的カテゴリーなしのメンタルヘルスは常にひとつの目標となっていたが、しかしまた、精神科医たちとアメリカ精神医学会に対する配慮も必要であったという印象を受ける。実際のところ、彼はRDoCによる行動的構成概念と、DSMの観察に基づく診断とを同時に勘案することを望んでいる。彼によれば、DSMのカテゴリー(規律権力)は、RDoCのカテゴリー(生権力)に従属しさえすれば、有用なものとなる。例えば、統合失調症や抑うつ症は、不正確な症状のカテゴリーである。というのも、 それは精神科医の観察が反映されたものだからである。そうした精神医学的カテゴリーは、脳のなかにその座をもつ病的過程の原因ではない(自然還元主義)(11)。ジョシュア·ゴードンがRDoC計画の野心をどのように定義しているかは、以下の通りである。
精神科医が、臨床的評価と対になった一連のテスト――行動テストや脳機能テスト――をあなたに受けさせるという世界を想像してみよう。一連のテストはあなたに診断を下し、現実的な予後を伝え、様々な治療のうちでどれと相性がよいかという見込みを提示しつつ、そのなかから治療を選ぶことを手助けするだろう。(12)
メンタルヘルスにおける、バイオ医学の研究の進展は、フーコーが考えた生権力の考えが適切なものであることを示している。フーコー のテクストに戻ろう。『社会を防衛しなければならない』(1975-76)の最後の講義のなかで、彼は次のように問うている。「権力のこの新しい技術、この生政治、この定着しつつある生権力においては、何が問題になっているのでしょうか」(13)。彼は、規律訓練のメカニズムと生政治のメカニズムをはっきりと区別しようとしている。生政治によって作動されるメカニズムは、予測、統計、グローバルな基準などである。個人そのものに介入することはないが、罹病率を下げ、生を延長し、出生率を上昇させるのである
これは規律とちがって、身体そのものに働きかけることでなされる個別的な調教ではないからです。規律がそうしているような具合に、個々の身体に接続することはまるきり問題になりません。その結果、細部において個人をとらえるようなことではまったくなく、包括的なメカニズムによって均衡と規則性という包括的状態を得られるように働きかけることがめざされるのです。要するに、生命を、人間-種の生物学的プロセスを考慮に入れ、このプロセスに対して規律ではなくて、調整を保証することなのです。(14)
このような調整の権力は、「生かし死ぬに任せること」(15)にその本質がある。ミシェル·フーコーに触発されたジョルジョ·アガンベンは、生政治の特殊性を把握することを提案している。彼によれば、生政治は次のように言い表される。
もはや死なせるのでも生かすのでもなく、生き延びさせるということである。というのも、もはや生ではなく、死ではなく、調整可能で潜在的には無限のものである生き延びを生産することが、我々の時代における生権力の決定的な報酬となっているからだ。生権力の最大の野心とは、人間の身体のうちに、生きているものと話すもの、ゾーエーとビオス、非人間的なものと非人間的なものとの間の絶対的な分離を生み出すことにある。すなわち、生き延びを。(16)
バイオ医学は、規律と調整という二つの効果を持っている。我々が規律化したいと思う(17) 身体に規範は適用され、我々が調整したいと思う人口(生物学的多様性)にもまた規範が適用される。次のことを付け加えておこう。「生き延びさせること」は、規律権力(精神医学の権力)が生権力(メンタルヘルスの科学)と出会う、そうした地点なのだと (18)。
精神医学や精神科医たち、さらにはそうした人々がでっちあげる障害は、最近のものである。それらが21世紀を生き延びるということを証明してくれるものは何もない。
私は、「牧畜業」という言葉によって、この文章を締めくくることにしたい。これは、武見太郎という、かつて日本医師会の会長を務めた人物が、精神病院を指し示すために用いた言葉である (19)。ある人々は、この言葉は精神科医に対する侮辱であると考えた。他の人々は、牧畜業者に対する侮辱ととらえた。臨床心理学者として、私は「牧畜業」という語は投影であり、実のところ彼の話し相手、つまり医者に適用されるものでもあったと考えないわけにはいかない。というのも、21世紀において、地盤を喪失しているのはひとり精神医学だけではなく、医学もまた不確かなものとなっているからである。健康に関するひとつの科学に還元された現代のバイオ医学は、調整へとそのすべてを捧げているように思われる。そうした調整の目標とは、生権力の味気ない地平である。すなわち、「生き延びさせること」がその目標なのである。
患者はもはやユーザーの影でしかない
『臨床医学の誕生』という名で日本語に翻訳されたミシェル·フーコーの著作は、本来のフランス語では『臨床の誕生(Naissance de la clinique)』というタイトルであり、『臨床医学の誕生(Naissance de la médecine clinique)』ではない。この著作は専ら医学的臨床を対象としており、その議論が適応される領域は19世紀末以前である。すなわち、この著作は20世紀を対象としていない。20世紀の医学、精神医学、精神病理学、精神分析を対象とはしていないのである。換言するならば、精神医学的臨床、精神病理学的臨床、心理学的臨床、精神分析的臨床といった、20世紀に発展したさまざまな医学的臨床の下位分野については、『臨床の誕生』と『精神医学的権力』のいずれにおいても、フーコーは探求をおこなってはいないのである。これらの諸分野は、臨床の発展を示すものであり、それぞれに区別されるべきものであるが、すべての分野が臨床医学のなかに根差している。
フーコーが臨床(医学)の誕生を描き出し、20世紀は多様な臨床(医学的、心理学的、精神分析的、等々)の発展を目の当たりにすることになったのだとすると、21世紀は臨床が終焉を迎える世紀ではないだろうか?保健衛生の領域において、コストの削減とAIの喧伝が行われるこの時代に、臨床にかんして何が生き延びることができるだろうか?近代の医学的経験にはそれを可能にする諸条件が存在するのだとすれば、21世紀のポスト近代の時代には、医学的臨床を不可能にする諸条件が存在しないなどとどうして言えるのだろうか?いずれにせよ、さまざまな条件が結び付き合っている。まず、医者はもはや臨床的観察を行う時間を持っていない。経済上および経営管理上に理由によって、その使命は変化してしまった。医者はもはや臨床家ではなく、臨床は医者に期待されるものではもはやない。一日あたり100人もの患者を診察することは、臨床的観察のために必要な時間を確保することを不可能にしている。ゆえに、医者はユーザーの健康の管理者となる。医者は医療従事者を手足のように用い、機器やPCによって集積されたデータに基づいて決定を下す。これは私が(医学的)規律権力の(保健衛生的)生権力への従属と呼んでいるものの、ひとつの例証となっている。

20世紀には、症状に対する鋭い臨床的観察は、診断の正確さをもたらす源泉となっており、医学的権力の進展とともに、医者の権威が打ち立てられた。しかし今日において、症状をよく観察することだけではもはや十分ではない。というのも、症状や医者のまなざしは誤るからである。症状や人間の眼は、不正確であり、診断上の誤りの源泉である。もはや医者の権威は、その臨床的観察の質や、医学的まなざしの行使をその拠り所とはしない。その権威は人体に接続された機器の使用に習熟していることに基づいているのである。そして、遺伝子や分子、細胞、回路、生理学的状態に「語らせる」ことが必要なのである(RDoC)。これらは分析の単位であり、これによって臨床家が肉眼での観察によって報告していた古い病気に対して、精密計算機医学によって与えられた新たな名であるx、y、zといったクラスターを同定することが可能になる。規律権力の変形としての医学的権力は、それゆえ消え去ったわけではない。しかしポスト近代という時代は、それが生権力に従属しているということを露わにしている。病人が示したり隠したりするもの、教育としての臨床、これらすべては今もなお続いており、今後も存在するだろう。しかし、それは最小限にとどまる。なぜなら、医者の人間としてのまなざしを欠いた、人体のデータへの直接なアクセスが、一般的なものとなっているからである。
いかなるまなざしも欠いたデータの集積。今後、多くの場面において、医者はもはや患者と対面で出会う必要がなくなるかもしれない。遠隔診療や健康アプリ(スマートフォン上でのセルフヘルプ)などのいわゆる発展は、そのことを示している。病院が病人を受け入れることがますます少なくなり、病人はいずれにせよ、第一には経済的理由によって、在宅で治療されるようになるということが容易に想像されるほどに。「患者」という言葉は用いられ続けるだろう。しかし、「患者」は、もはや「ユーザー」の影でしかない。医者はただ、機器やアプリ、安価な労働力によって集められたデータを検証し、それらの有効性を認め、ユーザーにかんする適切な判断を下すために、介入を行うであろう。ここで考えられているのは何より、健康に関するコストで無駄に見えるもの、すなわち、施設·設備や労働力などのコストを削減することである。
コストの削減は、AIによっても可能となる。ゆえに、保健衛生の領域においてもAIが推奨される。人間あるいは医者による介入が有効でも必要でもなく、治療はもっぱら次のような単純な理由によって自動化されると考えることができよう。その理由とは、人間は機械よりも多くの誤りを犯すというものである。加えて、今日では、アルゴリズムによって病気の診断が導き出されているのではないだろうか?これに関しては、例えば、DSMでの抑うつ気分についてのアルゴリズムを挙げるだけで十分であろう。機械やコンピュータは、計算力において人間よりも優れている。機械は人間よりも計算が早く、全く間違えないとは言えないが、誤りを犯すことも少ない。率直に言って、いったい誰がAIより人間を信頼するのだろうか?
「メンタルヘルスに関する主な障害の病態生理学を我々は説明することも観察することもできない」
20年以上前に、エリック·R·カンデルは次のように書いている。「精神医学の新たな知的枠組みの基礎は、あらゆる精神的過程は生物学的であり、それゆえ、こうした過程の変化は必然的に器質的である、というものである」(20) 。トマス·インセルやジョシュア·ゴードン、その他の人々とともに我々が見てきたように、ここで問題となっているのは、新たな知的枠組みでは決してない。なぜなら、その主張とは反対に、ここでは根本的に新たなものは何もないからである。ただ単に、精神医学における自然還元主義の復活が問題となっているだけなのだ。確かに、いくつかの道具は目新しく、印象的で新鮮ではある。しかし、科学的研究において前述した原理が日々応用される際にはしばしば、「街灯の下で鍵を探す」と表現されるような観察のバイアスに陥ってしまう。つまり、光が当たっているところ(既に明らかになっているところ)ばかり研究することになってしまう。
臨床の終焉という時代は、世界の健康政策にとって重大な意味をもちうる。この点について、私はアーサー·クラインマンと見解を共にしている。
アカデミックな精神医学は、程度の差こそあれ、臨床実践およびメンタルヘルスの領域における発展の大部分にとって、意味をもたないものとなった。バイオ精神医学の研究に対してここ数十年のあいだ行われた投資によって、興味深く、潜在的には重要な多くの発見がなされた。しかし、ある人物が特定の精神障害を被っているか否か判断するために、ひとつの生物学的なテストのみが日々臨床の場で用いられることは決してないのである。神経学的な病気や脳の機能に関する一般的な知識に関して、脳科学は劇的に進歩した。しかし、脳科学はいまだ、統合失調症や抑うつ障害、不安障害を引き起こすものを明らかにはできていない。(…)こうした精神疾患や、自閉症から摂食障害に至る、その他の精神医学的な病の生理病理学を、我々は相変わらず理解していないのである。(21)
その10年後、ケネス·ケンドラーは同じ指摘をしている :「メンタルヘルスに関する主な障害の病態生理学を我々は説明することも観察することもできない」 (22)。クラインマンはまた、アカデミックな精神医学と臨床精神医学を区別した。そして、どうすれば我々は精神医学を救うことができるか自問した。
例えば、いまは2030年だとしよう。我々は相変わらず、精神障害のための臨床的に有用な生物学的テストや、新たな治療のための薬剤を手にしてはいない。アカデミックな精神医学は、それを職業としては崩壊させる不当な役割に追いやられてしまっているだろうと思う。(…)2030年に、臨床的あるいはコミュニティ的な精神医学という職業は確かに存在しているだろう。しかし、精神医学のアカデミックな研究者は、はるかに少ないだろう。 (23)
こうした考察は、クラインマンがアカデミックな精神医学は消滅しつつあると考えているという点において、悲観的に見えるかもしれない。しかし、臨床精神医学は生き残るだろうという断言は、明らかに楽観的である。私はこの楽観主義を共有したい。そして、すでに手遅れかもしれないにせよ、臨床精神医学にはなお希望が残されているということに賭けたい。数十年のあいだ、世界中の厚生省は多くの問題、とりわけ、抑うつ障害や統合失調症、ホームレスや社会的孤立といった問題を解決することができなかった。我々の社会は、「孤独」に対する、あまりコストがかからず官僚主義的でもない装置から、利益を得ることができるかもしれない。ここでの「孤独」は、様々な条件によって引き起こされた、様々な苦しみの交差点であり、抑うつ障害、統合失調症、ホームレス、社会的孤立もそこに含まれる。イギリス(2017年)と日本(2021年)での孤独担当大臣の設置に続く、「孤独省」設置という試みは、それを批判の余地があると考える人もいるだろうが、尊厳を回復させうるものであるかもしれない。この尊厳こそ、当事者たちがここ数十年のあいだに失ってきたものである。こうした試みは、厚生省、精神医学のシステムあるいは権威に対する変革なしにはおこないえない。クラインマンの考えを踏まえるならば、問題はひとつの挑戦であり、そこにはグローバルなメンタルヘルスの領域にかかわる全ての人々が関わっている。さらに、健康政策という領域における、規律権力と生権力とのあいだの適切かつ許容しうるバランスについて包括的に考えることもそこには含まれるということを付け加えておこう。
ところで、ピエール=アンリ·カステルによれば、フーコーからひとつの方法を導き出すことは、無駄な繰り返しになるという(24) 。それは確かに正しい。一方で、自律性についてのカステルの考察の一側面と、現代のメンタルヘルスへの生権力概念の応用を統合しつつ、そうした試みが無駄な繰り返しに陥らない道を私は示そうとした (25)。
またカステルは、アーカイブの改竄について言及し、ルーレの有名な症例を挙げている。カステルの分析は、フーコーによる削除を単に指摘するのではなく、ある決定的な問いにかんする帰結を引き出すことになる。すなわち、精神医学は狂気の客観的規範を規定することが可能なのか、という問いである。
ここで、RDoCプロジェクトおよびグローバルなメンタルヘルスについて考察してみよう。精神医学的カテゴリーを用いないことで、現代のバイオ医学は、まさに精神医学によって打ち立てられた狂気の諸規範という問題を回避しようと試みているのではないだろうか?バイオ医学をめぐって広範な問いを引き起こすものを、カンギレムは既に指摘しているが、それは生物学的規範性の問題である。(26) さらに言えば、ここでの問題は健康を定義する諸規範である。
人間の病はたんに、その身体的な力の限定なのではない。それはその人間の歴史におけるドラマなのである。人間の生はひとつの実存であり、その目的への強迫観念によって、前もって誂えられたものではないものに生成する現存在なのである。そのため人間が病に対して開かれているのは、懲罰や運命によってではなく、世界に単に存在しているというそのことによってなのである。こうした関係 において、健康とは、立法の枠組みで経済的秩序を活用することへの要求なのでは全くなく、生を実践するうえでの様々な条件が自発的に結びついたものを指すのである。(27)
「健康の科学は存在しない、というカントの言葉を和らげよう。ひとまず、健康は科学的概念ではなく、通俗的な概念であることを認めよう。通俗的というのは、野卑であるという意味ではない。単に共有されており、万人の手が届くという意味である。」(28)
「臨床を防衛せねばならない。」
本論で私が主張したことに関して、なお次のような疑問を抱く読者もおられることだろう。私たちは本当に臨床の終焉に居合わせているのか、という疑問である。それに対しては、もっと含みのある返答をすることを許していただきたい。「確かにイエスであるが、おそらくはノーである」と。イエスというのは、「臨床の終焉」が生権力と新自由主義との結合によって、疑わしいやり方ではあるがきわめて効果的に推進されたという意味においてである。公的機関を最大限に閉鎖し、最小限の人間を雇用することによって、それは行われる。そしてその口実として、健康にかかわるコストや、すでに過去のものになったと呼ばれるシステムを放棄するためのコストなどといった、経済上の理由が引き合いに出される。こうしたすべての事態が、臨床に死をもたらし、人間の病理のための病院·施設を閉鎖するよう、働きかけているのである。2019年と2020年に起きたコロナウイルスの大流行下で我々が目にしたとおり、病院のベッド数の削減と、数十年にわたる健康に関する諸制度への財政面での費用削減は、世界中で数百万もの人々に悲劇的な帰結をもたらすことになったのである。

「イエス」というのは、他の意味においてでもある。というのも、会話のできるロボットのような場合を挙げれば、それは自己診断する個人を出現させたが(ひきこもり、アスぺルガー、境界例など)、またそれは権威の在り処が移動したということを表しているからだ。精神科医、心理学者、精神分析家といった人々は、養成課程を持っており、診断をするうえでの合法性を手にしているが、彼/彼女らにはもはやいかる権威もないのだ。もはや診断が彼/彼女らには属していないということではない。なぜならプロによる診断は必要とされているからだ。むしろ、権威は当事者のもとに移行したのである。当事者の主権(生権力)は、臨床家の知識(精神医学の権力)に対する軽視によって要求される。当事者の主権は、規律権力を引き起こすものではない。「生きさせること」でも「死ぬがままにしておくこと」でもなく「生き延びさせること」を目的とする生権力を、それは引き起こすのである。まさにこのことによって、診断を下し、あるいは破棄する知識をつねに有していた臨床家は、診断を破棄するのに必要な権利をもはや持たないことになるのである。当事者のアイデンティティの 肯定が、至上のものとなる。臨床家はもはや、それを確認し、あるいは肯定することしかできないのである。
「イエス」という解答は、ひきこもりに対してもまた適用される。臨床の誕生が、医者とヒステリー患者という規律権力の組み合わせによって具体したものだとすれば、臨床の終焉は、ひきこもりという個人によって明示されることになる。ひきこもりの場合、そのパートナーとなるのは他者の影にすぎない(シュレーバーのフランス語訳を引用するならば「ぞんざいに片づけられた人物の影」である)。医者のまなざしが届かないところに、近代以前の非理性が回帰していることを、我々ははっきりとは認識していないとしても、医者や精神科医、社会は総体として、非理性の回帰に直面しているのである。ひきこもりは非理性が回帰してきたということ、そして我々は「臨床の終焉の時」を生きているのだということを告げるために、我々のもとにやってきたのである。実際、ひきこもりは、受動的な攻撃の形態である。それは新自由主義的な社会とその副産物に対して、返答を行っているのだ。そのうえ、大いなる閉じ込めは、生権力の至上命令に従属している。すなわち、生き延びることである。フーコー(2004年)が異常な個人からなる集団を三つの要素から構成されたものとして定義している――怪物的な人間、矯正されるべき個人、自慰愛好家がそれである――のに対して、私の探求は、ポスト近代における社会的退隠は、フーコーが異常者について述べた理論の第四の要素であると議論することに貢献している。ひきこもりという新たな異常者は、21世紀の日本において、さらにその彼方で、非理性を具現化したものなのだ。
しかし同時に、ひきこもりという現象は、家庭のただなかで、社会的な諸制度の外側で行われる闘争であるとみなすことも可能である。この闘争は、メンタルヘルスに関する現行の諸実践に向けられている。そしてこの地点に、精神分析と人類学、社会的孤立が合流する空間が存在するのだ。
それにもかかわらず、「我々は本当に臨床の終焉を目撃しているのか」という問いに対しては、少なくともある程度まで、「ノー」という別の返答が存在する。控え目で弱々しい言い方が許されるとすれば、臨床はその一部を、精神分析という別天地に避難させたのである。フロイトは、臨床からまなざしを追放し、精神分析を発明することで、 分析家と分析主体を互いのまなざしから切り離す長椅子を生み出した医者として、医学の歴史のなかに名をとどめている。さらにフロイトは、今日では彼の実践が変容し、多くの分析主体がセッションにおいて他者のまなざしを必要としていることを知ったとすれば、仰天することだろう。
医学的まなざしが、厳密な意味ではもはや存在しないというのは確かだ。しかし、この他者のまなざしは、例えるならば沈みこまないために必要な支えなのである。この観点からすると、精神分析が規律訓練の子であることを否定するものは何もない。しかしそれは、生権力のなかで弱められることだろう。精神分析は、自身の無意識に対して問うことをしない者には、差し出されていないのだ、ロボットとの会話に満足する者にとって、精神分析は何事もなしえない。しかし、精神分析が人類学的方法と組み合わせられるならば、生権力への抵抗としてみなすことができる。そして、その抵抗のスローガンは次のようなものであるだろう。つまり、「臨床を防衛せねばならない」である。
我々が目下体験していることがらを臨床の終焉という言葉で説明する試みは、ある二重の困難の経験から生じている。まず、日本で生じたひきこもりという大規模な現象へのアクセスの困難さがある。当事者の苦しみは、それが何であれ、あらゆる医療化や精神障害への還元に抵抗する。次に、私が日本へと移住したことにかんする困難さがある。日本から世界と日本について考える「西洋の」移住者はまれで、それが大学人で精神分析家であればなおのことである。日本にいることで、同時に日本の状況を学びつつ、ある距離を保ちながら、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸での精神衛生の領野を観察することが可能になった。とりわけ、私が2年間にわたって京都のアンスティテュ・フランセでおこなったミシェル・フーコーの思考についての週1回のセミネールの末に、臨床の終焉という考えを着想したのは、まさにこのような立場からであった。
続けよう。臨床の終焉とは、一方では、それによって見込まれる医療費の削減が理由の、入院病床の急激な削減と病院や社会・医療施設の大規模な閉鎖であり、こうした現象は西洋において数十年来認められている。他方では、医者-患者関係の大激変であり、患者はもはやユーザーの影でしかない。ゆえに、単に脱施設化の現象だけではなく、まさに医者-患者関係の本質的な変容が問題である。このことを指摘したのは私一人では決してなく、自律性は切望されるものから条件へと移行したという記述 (29)を経て、オンライン診療を通じて、患者との対面での人間的接触を失うことで、その専門性のアイデンティティを失ったと感じている一般医の動揺 (30) があらわされる今日に至るまで、1980年代からこの証言は数多くある (31)。我々は以下のようにはっきりを述べよう。というのも、このことは本質的であり、文字通りに受け取られねばならないからだ。多くのケースにおいて、患者はもはやユーザーの影でしかない、つまり、医者は病気についての知を所有する者ではもはやなく、ユーザーは自らの病気の治療と診断において自律的なのである。この観点からすると、19世紀には臨床の出現の条件が確かにあったということが真であるのと同様に、21世紀には臨床の不可能性の条件が確かにあるのだ。このことは、『統治不可能な個人』の一節でのロラン・ゴリの記述と十分に一貫している。
もちろん、フロイトの発見は、それが出現した時に作動していた社会的・文化的な諸力の反映にすぎないというわけではない。その発見は、それ固有の厳密な臨床に由来している。しかし、その諸概念とそれらが主体性の条件に対してもたらした変容は、集合的な変化、時代精神が受け入れ、許容し、束縛あるいは制止するディスクールから切り離すことができないということが明らかになる。その力線と分割線とともにある知的領野を打ち立てることは、特定の時代と社会において、ひとつの発見を可能にする。その状況はおおまかに素描されるのだが、それが示そうとしているのは、諸概念や諸実践に対するある社会の受容は、その時代のエートスに極度に依存しているということなのである。さらに、大きな特徴をしるしづけられたこのパノラマは、どのように知がある文化の生態学的ニッチから―知は今度はその再コード化に関与するのだが―出現しているかを示そうとする。(32)
児童精神医学や精 神分析がほとんど発展していない日本(2021年9月時点で15歳以下人口の1488万人に対して421人しか日本児童青年精神医学会の認定医がいない、またIPAとラカン派を合わせてもせいぜい50人しか精神分析家がいない)での生活はただ、先に引用したロラン・ゴリの言葉を取り上げることへと私を駆り立てた。実際、「集合的な変化、時代精神が受け入れ、許容し、束縛あるいは制止するディスクール」が存在し、「その力線と分割線とともにある知的領野を打ち立てることは、特定の時代と社会において、ひとつの発見を可能にする」と。フランスにおいて児童精神医学と精神分析で起こったことは、日本では起こらないのである (33) 。
診断を下し、あるいは破棄する知識をつねに有していた臨床家は、診断を破棄するのに必要な権利をもはや持たないことになるのである。当事者のアイデンティティの肯定が、至上のものとなる。臨床家はもはや、それを確認し、あるいは肯定することしかできないのである。
21世紀における臨床の不可能性の条件は、我々の社会におけるネオリベラリズムの支配の到来、クロード・アリオーネ (34) の言葉を引用するならば、「神なる市場」の到来と不可分である。
ラ・ボエシが16世紀に、かの有名な『自発的隷属論』で既に述べたように、暴政がはじまると、ひとは束縛によって服従し、力によって制圧される、ということが真であるならば、その後にやってくる人々は、自由の体験と嗜好をもつことがなかったことを後悔することなく隷属する時がやってくるのである。事実が示すように、個人は統治不可能なものであることが明らかになっている。19世紀にはそのことが予見され、20世紀にはそれが確かめられ、21世紀の初めには、この点につい ては何の思い違いも残されてはいない。それにもかかわらず、社会の平和と主体的均衡を脅かす危険と同時に、教育、治療、統治の技術における禁欲が現れる。フロイトによる精神分析の発見は間違いなく、その一部をなしている。しかし、そうした禁欲だけでは十分ではなかったし、この全体主義的イデオロギーに「市場の宗教」を含めるのであれば、確かに宗教的である新たな熱狂に我々が脅かされている今日においても、十分ではないのである (35)
この観点からすれば、最も影響力のある医学雑誌であるNew England Journal of Medicine誌を読んだところで、我々は何の矛盾も見出さないだろう。この雑誌は2021年1月に、NEJM catalystで「健康ケアの提供と革新における臨床医の役割:ケアの変化にとっての強力な声」(36)というタイトルの電子書籍を発行した。しかし、それは「ケアのコストを削減する力」を提唱しつつ、臨床 医をユーザーの健康管理者へと還元するという、「経営管理による災害」(37)を描き出すグロテスクな例でしかない。そこでは以下のような議論がなされている。ジェームズ・スチュワートは「臨床医にはケアのコストを削減する責任がある」と主張する。ロバート・オリバーは、「臨床医としての最大の仕事は患者教育である。まさしくそこで、ケアのコストを削減できるのだ」と熱狂的に述べている。トーマス・ジェンキンスは、他の論者たちよりも狡猾に、「人々が理解していないのは、ケアの質が良くて、データに関して革新を示すことができるならば、臨床医はより多くのお金を稼ぎ、ケアのコストを下げることができるということである」ということを心得ている。そして最後に、キャスリーン・シャッツは、「看護師が発言権を持っていれば、ケアのコストを削減するのに役立つ可能性がある」という理由から、パラメディカル(医師以外の医療従事者)のさらなる関与を呼びかけた。
世界の精神病院の状況は多様であるが、医療従事者が患者と過ごす時間が激減しているために、あるいは、メンタルヘルスをとりまくシステムの漸進的な展開のために、どこにあっても臨床の仕事は不可能になっている。アメリカでは、アーヴィング・ゴフマンの仕事以降、精神病院と刑務所を区別することがもはやできなくなっている (38)。日本では、基本的人権が侵害されているという点で、一部の精神病院は刑務所よりも劣悪であることが明らかになった (39)。フランスでは、成人の場合、精神科の利用登録が、あらゆる治療同盟を妨げ、医療従事者に対する患者の信頼を破壊するに至っている (40)。未成年の場合、6万人の子供と青年期の人々が、ヌーヴェル=アキテーヌの保健機関が提供するケアへのアクセスを失うという脅威にさらされている (41)。
多くの議論が蓄積され続けているので、ここでその全てを論じ尽くすことはできないが、臨床の終焉を診断することはできる。もちろん、どうしてそれを受け入れなければならないのだろう。誰もが脱施設化の限界を目の当たりにしているが、なぜただ獣医的精神医学 (42)とデジタルなメンタルヘルスのカップルにただ満足するのだろうか。警察の監視への同意と関連した、薬物治療への服従やユーザーの健康へのデジタルな操作に対する代替案は存在しており、制度精神療法、精神分析、人間的精神医学 (43)、あるいはエマニュエル・ヴェネ (44) の巧みな表現を用いるならば、手仕事としての精神医学においてそれらは示されている。実際、
公衆のための精神医学は、いつも災いが降りかかった制度や災いそのものであるわけではなく、(若い専門家たちは)ただ欠乏に対処するということから指示された事柄よりも、より意欲を引き起こすようなケアの手段を必要とするだろう。(45)
WHOや各国政府に対してであれ、またはNEJM誌やLancet誌といった最も権威ある科学雑誌の諸論文に対してであれ、SARS-CoV-2のパンデミックによって引き起こされた世界的な健康にかんする不協和音は、ビッグデータとAIで武装したEBM(根拠に基づく医療)が、極端なほどに誤謬に陥ることを示すことになってしまった。人間によって解釈されない根拠というものは存在しない。医療従事者を機械やAIに従属させたり、人間の医療従事者を(例えば、チャットボットなどの)デジタル・アプリケーションに置き換えたりすることを支持する特定の種類の根拠/エヴィデンスを評価する人間もいる。この観点からすると、根本において、我々が体験していることに真に新しいことは何もない。アインシュタインが1932年7月30日の手紙でフロイトに書いたように、少数の者が自らの「憎しみと殲滅の欲求」を満たすために、戦争と破壊に専心し、狂乱と犠牲に至るまでに人々をその欲望に奉仕させるのだ (46)。
ここでの私のアプローチは、完全に明瞭で一貫している。我々は臨床の終焉の時代を生きている。しかし、話す存在が生きた道具へと還元されるがままではない自由をいまだ有している限りにおいて、歴史的で、解放をもたらすナラティヴなもの、一言で言えば、臨床の再発明にチャンスを与えなければならない。我々は伝統、理論、実践の継承者であり、決してそのような土壌の外にあるわけではない。刈った後でも再び生えてくる草のように、臨床の復活はつねに可能であるのだ。
